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あああ国指定文化財
田代大田古墳 安永田遺跡 万歳寺頂相画 安水田遺跡出土銘箱括
あああ県市指定文化財
四阿屋神社の御田舞 庚申堂塚 赤坂古墳 黒麻地二五条袈裟
剣塚
あああ市指定文化財
西法寺の四脚門 肥前鳥居 薬師如来像 田代大田古墳
六地蔵 立石八幡宮五重石塔 野副板碑群 村田浮立
藤木の獅子舞 曽根崎の獅子舞 西清寺のいちょう


  1 田代太田古墳    国指定史跡

柚比遺跡群の南端にあたる田代本町の丘陵上に位置する装飾古墳です。装飾古墳とは彩色画または殺効、陣彫などで石室内などに装飾を施したもので、筑後川、有明海沿岸に多く分布します。田代太田古墳は彩色壁画系の装飾古墳としてはやくから知られていました。
6 世紀後半代に造られた直径約42m の大型円墳で、高さ約6m の墳丘は二段に築かれています。中には前室、中室、後室の3 室からなる全長約gm の珍しい構造の横穴式石室が南に開口しており、死者を安置する屍床は後室に3 体分、中室に2 体分設けられています。

装飾文様は後室奥壁、後室と中室間の袖石に描かれており、後室正面奥壁には赤・黒・緑の3 色に石室材の花尚岩の風化した岩肌(黄色)を利用した4 色で、上方に蓮蔵賢篤妥を4 段描き、下方に人物像.騎馬人物像.舟.花文.買手文.筒芯苗菱.嵩森.盾などの図柄が配置されて、ます。後室と中室間の右袖石には同心円文や騎馬人物が狩をしている風景が描かれ、左袖石には同心円文・舟上人物・盾・高杯らしし、ものがみられます。これらは一種の物語を表現しているかのようにおもわれます。


  2 安永田遺跡      国指定史跡

獲棺墓地の遺跡であることは知られていましたが、昭和54 年の範囲確認調査時に九)封で初めて銅鐸の鋳型が発見されて大きな二ュースとなりました。銅鐸鋳型の発見は、それまで銅鐸はなし’と考えられてきた北部九州地方においても銅鐸が作られていたことをあきらかにしたのです。その後の2 年間にわたる本調査の結果、ここは弥生時代中期末(1900 年くらい前)に銅鐸をはじめ銅矛など、青銅器を制作していた特殊な集落、いわば弥生時代の「ハイテクエ場」であることが判明しました。


現在、本調査を行った地区4 , 400rnv が国指定史跡に指定され、出土した鋳型類は国指定重要文化財に指定されています。調査地区は、北方向から狭く深い谷が入り込む地形で、この谷頭を取り囲むようにして49 軒の竪穴住居跡がみつかりました。北東側にはほぽ南北に走る幅約5 m の溝があります。これらの中から銅鐸鋳型・銅矛鋳型・ふいごの羽口・錫・石材・砥石・鉄器など多くの遺物が出土しました。また、もっとも谷底に近いところからは、炉の跡がみつかっています。このように安氷田遺跡は、青銅器の鋳型制作から鋳造・仕上げに至る一連の作業を行った工房集落跡と考えられています


  3 万歳寺頂相画     国指定史跡

本城山万歳寺は、建久9年(1198 )に天台宗寺院として鳥栖市今泉町に開山され、その後、応永年間(1394 一1428年)に、以亨得譲禅師によって再興され、これ以降は、臨済宗に属し、天正年間(1573 〜1593 年)には現在地の鳥栖市河内町に所在していたと伝えられています。
「絹本著色見心来復像」は、縦94、5cm 横447cm の絹布に、以亨得譲禅師が中国で師事した見心来復禅師を描いた筒箱像で、円相直径は最大で48、8cm、白土.朱最・墨などの顔料を用い、元時代の第一級の僧侶であり、文化人だったと伝えられる見心来復禅師の肖像が繊細なタッチで描かれています。しかも本図は中国の円相像としては初見であり室為(1365 )年の銘文は日本の作例より古いもので、円相像の成立という美術史上の問題からも貴重な絵画といえます。
「絹本墨画淡彩以亨得譲像」(経行像)は、室町時代に日本で描かれたと推定されるもので、以亨得譲禅師の経行(座禅中の眠気をさますために、屋外を歩いて修行すること)時の姿が描かれています。当時の肖像画としては、質感や量感を巧みに表現し、リアリズムを意識した絵画として貴重なものです。


  4 安水田遺跡出土銘箱括  国指定史跡

九州で初めて鍋録の鋳型が出土した記念すべき遺跡である安永田遺跡の本調査地点(国指定史跡)から出土した、銅鐸の鋳型の破片5 点と銅矛の鋳型の破片4 点(うち3 点は1 つにつながる)、それに隣接する荻野公民館の敷地から出土した銅矛の鋳型片1 点を加えた計11 点です。
銅鐸の鋳型は。、ずれも「福田型」とばれる、帯状の文様横帯文を主体としたもので、これらの中には「邪視文とよばれる、眼をかたど呪術的な模様をもつものもあります。また、下部とおもわれる小破片にはエサをくわえた水鳥が描かれています。この鋳型でっくられた銅鐸は大きさ20cm 前後の小型のものですが、製品はまだみつかっていません。

銅矛鋳型は4 個体分ありますが、2 個は「第法形銅矛」と、、う種類のものでもう1 個は「吊箱形銅矛」の鋳型を再利用して側面に中広形銅矛を彫りこんでいますが、こちらは未成品です。これらの鋳型は「若婆冨若鍵磐」という脊振山地一帯に産する石材を用、ています。
鳥栖市ではこのほかに平原遺跡、大久保遺跡く柚比町)、本行遺跡(江島町)で青銅器の鋳型片が出土しています。


  5 剣塚 県指定史跡

標高37m の島栖市田代本町字綿議にある、大きさが全長80m 、後円部径45m 、前方部の幅6Om 、高さ75m の前方後円墳です。周囲にめぐらされた溝は幅5 m もありその規模は佐賀県下でも有数のものです。
墳丘上は石で敷き固められるとともに、埴輪が立てならべられていたことが知られています。死者を葬った石室は入り口が南にある横穴の石室で、石室に通じる墓道から須恵器、在軍(鎧の一種)の破片などが出土しています。

標高37m の島栖市田代本町字綿議にある、大きさが全長80m 、後円部径45m 、前方部の幅6Om 、高さ75m の前方後円墳です。周囲にめぐらされた溝は幅5 m もありその規模は佐賀県下でも有数のものです。
墳丘上は石で敷き固められるとともに、埴輪が立てならべられていたことが知られています。死者を葬った石室は入り口が南にある横穴の石室で、石室に通じる墓道から須恵器、在軍(鎧の一種)の破片などが出土しています。


  6 庚申堂塚 古墳 県指定史跡

柚比遺跡群の南端部にあたる標高約50m の丘陵上に所在す受前支些円墳で、西方に大木川の扇状地一帯が一望できます。古墳の頂上には「庚中尊天」と刻まれた石碑がたっており、庚申堂塚という名称はおそらくこの石碑に由来するものでしょう。
古墳はほぽ南北に主軸を持ち、後円部が南に位置します。全長約60m 、前方部最大幅約48m 、後円部径約32m 、高さ約5 m を測ります。墳丘は二段に作られ(二段築成)葺石が前方部と西側面によく残っており、過去に多くの円筒埴輪片が採集されていたことから、葺石に覆われ、角筒陥輪が立て並べてあったとおもわれます

また、東側と西側に濠の一部と思われる凹地が現在でも認められることから、周溝を巡らしていたと考えられます。後円部には奥行約4m 、幅約25 m 、高さ3m を測る単室の横穴式石室が南西方向に開ロしており、石室内の壁面はべンガラ(酸化鉄ンで全体が赤く塗られていました。
副葬品としては鉄器類献.ヤリガンナ.馬具類)、須恵器類などが出土しており、6 世紀中頃に造られた有力豪族の墳墓とおもわれます。


  7 赤坂古墳   県指定史跡

赤坂古墳は古墳出現期(3 世紀後半)の築造と推定される、全長約24m の前方後方墳で、現在確認されている定型化した古墳のなかでは鳥栖地域最古のものであるばかりか、九州でも最も古い初現期古墳のーつに数えられています。
南側に筑紫平野を望む立地で、標高約35m 、周辺との比高差約10 一15m の丘陵の屋根に沿ってほぽ東西方向に主軸をとっています。後方部は一辺約16m の正方形で、高さぐ比高差)は約Zm を測り、東側に長さ約sm の低平な前方部を連接しています。前方部の幅はわかりませんが、5m 程度のごく狭いものとおもわれます。

周溝は幅約15 一25m 、深さは残りのいいところで約08m です。死者を埋葬する主体部は未確認ですが、一部削られた所から黄白色の粘土塊が採集されたことから、過去に破壊された可能性もありますが、おそらく粘土榔(粘土で割竹形木棺を覆う)だろうとおもわれます。
墳丘くびれ部と周溝内から古式土師器の二重口縁壷・小型壷・小型器台などが出土しましたが、これらは当時の近畿地方の影響を強く受けたものです。


  8 黒麻地二五条袈裟    県指定史跡

本城山万歳寺再興した以亨得譲は、室町時代前期の禅僧で、中国.元に学び、帰国後、鎌倉の南禅寺や建長寺にあって活躍した五山文学の再興に尽<した功績者の一人です。中国で師事した覧芯様翼飾の像ゃ自らの像(いずれも国指定重要文化財)を万歳寺に残しています。
「 黒麻地二十五条袈裟」は、その以亨得譲禅師の遺品として永く万歳寺に伝えられていたものです。
袈裟に「悚牧」 の銘が見られ、これは以亨得譲禅師の道号「検裂」を意味することから、同師が着用していたものと判断されています。

部分的な傷みは進んでいますが、全体の形状は残されています。黒染の麻という質素な作りの袈裟ですが、刺爾などに中世の日本になし、技法がみられることから(日本国内で作られた可能性を残しながらも)中国・元で製作されたものと考えられています。
全体として質素ながらも、縫い方や刺繍などに優れた工芸技術の駆使が認められると共に、以亨得譲の所用品として時代を特定することができる中世の袈裟資料として貴重なものです。


  9 四阿屋神社の御田舞   県指定史跡

御田舞は、田植えの諸作業を芸能化したもので、豊作を祈るして全国的に広く行われている祭事のーつです。
四阿屋神社の御田舞はその名の通り、養父郡の惣社である四阿屋神社に奉納する神幸祭で、かっては
牛原−獅子舞、宿−鉦浮立、養父−はぐま(白毛の稽輪)行列、蔵上一御田舞が田植前の4 月1 日に奉納されていましたが、牛原の獅子舞と蔵上の獅子舞が引き続き執り行われ、最近、宿の鉦浮立が復活されています。御田舞は秋の行事へと移行し、蔵上の「おくんち」10 月20 日前後の日曜日に行われています。

御田舞の役割は、長 ・座奉行・申立・種まき・代踏.田童.田打・鬼・ 鼓・太鼓・先払し、・手すきなど総勢泊
30 人以上で構成され、男だけで演じられます。3 間四方の仮設舞台の上で演じられ、木ぐわを持った田打ちの所作、力強い種まきの所作、代かき棒を持った花蕗の優雅な舞、早乙女姿の田童のあどけないしぐさ、鬼の勇壮な舞など、古式豊かな田植えの舞として貴重なものといわれています。

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