歴史探訪 指定文化財へ 

| 地理的な環境

鳥栖市は佐賀県のほぼ東端部にあたり、筑紫平野の最奥部、西北端に位置します。
市域は東西に8.2km、南北に9.0km、面積71.73kmで、人口56,711人(平成8年1月現在)の規模の町です。北は脊振山地をへだてて福岡平野、南は筑後川をはさんで久留米市、西は佐賀平野、東に小郡・甘木・朝倉一帯の平野へと続きます。屏風のように連なった脊振山地を背に、山麓斜面から平野部は、温かくのびやかな日差しをたくさん受けるように南に向けて広がり、その前面を筑後川が悠々と流れていきます。

この変化にとんだ地勢に加えて、鳥栖市はちょうど九州の縦の道と横の道とが交差するところに当たり、
市域は古来から九州の交通の要衝ともなっています。遠い昔より、北は福岡平野、南は中九州・南九州、西は唐津・佐賀平野、東は朝倉・嘉穂盆地からの道がこの地で交差し、そして中国大陸や朝鮮半島からの文化も
この地を通り、全国に伝わっていきました。

近世になると、鳥栖市域を長崎街道が走ります。
小倉〜長崎間57里の25宿場のうち、轟木・田代の2つの宿場町がこの地に栄えます。また田代配置売薬が西日本各地に広がっていきました。
明治以降、この地には鉄道が走り、国道が敷かれ、高速道路が整備されますが、これらはいずれも鳥栖市で南北・東西に交差し、その交通条件の良さから鳥栖市は多くの企業の進出が盛んで、九州の流通拠点として全国に知られるようになっています。古代の生活や文化を伝える密度の高い埋蔵文化財、近世の雰囲気を今に伝える宿場の町並み、そして現在の流通拠点の省 庁である東洋一のクローバージャンクション。鳥栖市は歴史と文化が現代に溶け込んでい息づいている. さしずめ“歴史・文化の十字路”ともいえます。


| 旧石器・縄文時代

今から数万年前、地続 きであった大陸より移り住んだ人々は、石を打ち欠いて作ったど道具(打製石器)を用いて、狩猟や採集など自然に依存した生活をしていました。この時代を旧石器時代、あるいは、先土器時代といいます。
市内では過去に柚比町・今町の丘陵一帯で、石刃などの石器類の散布が報告されており、長野原遺跡(永吉町)ではナイフ形石器や細石器などが見つかっています。
およそ一万年前、氷河時代が終わると気候が温暖化し、海水面が上昇して日本列島は完全に大陸と切り離され、今日とほぼ同じ自然環境になりました。人々は新しい狩猟具である弓矢を使い始め、土器を作り始めました。この時代を縄文時代といいます。西田遺跡(山浦町)は早期の遺跡で多数の土器片や石器類に伴って蒸し焼きによる調理を行ったとみられる石組みの炉など、さまざまなタイプの集石遺構が,多数みつかりました。






前期から後期にかけては、いくつかの遺跡で土器や石器が出土しています。牛原前田遺跡では、集石遺構から曽畑式土器と呼ばれる前期の土器が出土し、平原遺跡(柚比町)からは中期の集石遺構が多数みつかり、並木式土器という珍しい土器が出土しています。晩期になると本川原遺跡(永吉町)からは黒川式土器や夜臼式土器と袋状貯蔵穴、住居跡、永吉町長吉遺跡からは墓の副葬品と考えられる小壺と有柄石剣、村田三本松遺跡(村田町)からは、晩期山ノ寺式土器の甕棺墓が、梅坂西遺跡(今町)では、動物をとるための落とし穴と考えられる遺構がみつかっています。


| 弥生時代

弥生時代とは縄文時代と古墳時代にはさまれた、紀元前3世紀から紀元3世記後半頃までの期間で稲作を中心とした農耕文化を持った人々が大陸から朝鮮半島を 経由して渡米し、日本列島の人々がそれを受け入れ、習い発展させた時代ということができます、お墓のまつりの土器をすてた穴(フケ遺跡)丘陵上の環濠集落(平原遺跡) また、稲作だけではなく、金属器(鉄器.青銅器)の製作.萩縁り.家畜の飼育など、

数々 の新しい高度な技術がもたらされ、私達の生活習慣の多くは、この時代に始まったといえます。鳥栖市域の弥生時代の遺跡は丘陵部に多く立地しています。最近の調査では、現市街地の莞舌賓遺跡(古賀町)、Y 苛遺跡(京町)、簾呆遺跡等。:お、ても、かなり大規模な集落が展開していることがわかってきていますが、遺跡の分布は大き<2 つのグループに分けることができ、北東部の中心は柚比・今町地区の丘陵く描此道赫葬>、南西部の中J しは才寸田・江島町一帯の山麓・丘陵上。:分布する遺跡群とみられます。いずれの地区も、遺跡は山麓・丘陵と谷が複雑に人り組んだ地形に立地しています。このような地形は、高台に集落を営み、そして畑を耕し、谷間で水田を営むというような農耕を始めたこの時代の人冷にとっては、格好の生活環境だ。たと。、えます。また、それぞれに萎菜苗遺跡く柚比町)、V 谷遺跡く江島町ンと、青銅器の鋳型が出土した遺跡があり、かなり高度の技術を持った人々 が生活していたと考えられます。
まず柚比遺跡群では、箱芋芋疎麓下の漂高約30 一50m の丘陵群上に、弥生時代
前期後半(約2200 年前ンから後期(約1700 年前)までの集落跡.靴桑群がほぼやつなみかなまる
途切れることなく分布しています。八ッ並金丸遺跡(今町)では弥生時代前期後半の環濠を持。た集落があり、次、、で蔭晶遺跡く今町)、安永田遺跡、竿療遺跡、笑久操遺跡、箭函遺跡く柚比町)、篇ジ置遺跡く永吉町)などへと広がり、その数・規模を大きく増加させていき、弥生時代の中期に最も盛んな時期を迎えます。平原遺跡では丘陵上に環濠をめぐらせた集落跡がみつかっています。描民果符遺跡く柚比町)では銅剣などが副葬された首長集団の墓と薬向遺裾、そして桑厳跡と考えられる大型猫笠‘省逢猫がセ,トで発見され、注目されています。

安永田遺跡では、銅鐸・銅矛などの青銅器生産工房跡が、大久保遺跡からは獲棺を焼いたとみられる遺構がみつかっています。獲棺墓は弥生時代の北部九州地域で最も多くみられるお墓で、柚比遺跡群内にも数多く分布し、柚比本村遺跡、大久保遺跡跡、安永田遺跡、柚比梅坂遺跡、フケ遺跡などがその代表遺跡としてあげられます。これらの中にはお墓に伴う祭犯の跡が確認されたものもあります。村田一江島町地区の朝日山南麓・丘陵群上にも数多くの遺跡が分布してし、ます。やすろ
安良遺跡(村田町)は過去にゴルフ場が建設され、多数の獲棺墓・石棺墓が出土しています。

| 弥生のテクノポリスー鳥栖地域の青銅器生産

現在までに鳥栖市では、27 個体分、26 点の青銅器の石製鋳型が発掘調査等により
出土しています。このうち安永田遺跡からは5 個体分、10 点が出土しています。
内訳は九州にはないとされていて“教科書を書き替える発見”といわれた銅鐸の鋳型が5 点(2 個体分)、ほかに銅矛の鋳型が5 点(3 個体分)が出土しています。
また、本行遺跡からは18 個体分、12 点の多種多様な鋳型片が出土しました。
また、本行遺跡からは18 個体分、12 点の多種多様な鋳型片が出土しました。
内訳は安永田遺跡のものより古いとおもわれる銅鐸の鋳型が1 点、両面を使用した
鋳型が6 点(13 個体分、銅剣・銅矛・地・不明青銅器)、銅矛の鋳型が3 点( 2 個体分)、不明青銅器の鋳型が1 点、種類のわからない鋳型が1 点です。


さらに本行遺跡のある江島町からは、銅尤の鋳型も過去にみつかっています。このほか、
平原遺跡からは銅尤と種別不明の鋳型が1 点づっ、大久保遺跡からは銅犬ふいごの鋳型が1 点出土し、
安永田遺跡・本行遺跡・前田遺跡からはふいご羽口(銅を溶かす炉に空気を送る送風管)や鋳型の中子等も出土しています。これらのことから、弥生時代の鳥栖地域は、高度な技術を持った集団が長期間にわたって活動していた先進地域であったと考えられます。


| 首長の墓と“まつりごど’の空間一柚比本村遺跡

基山町との境に近い柚比町にある柚比本村遺跡は、いまから2 , 000 年程前の弥生時代中期を主体とする遺跡です。ここからは当時のこの地域の有力者たちの墓や、弥生時代では最大規模の建物跡がみつかりました。
墓地は、中央部の最も古い1 基が木棺墓で、あとは獲棺墓です。
これらの中には副葬品をもつものがあり、銅剣7 本、青銅製絶競W く剣の柄頭の飾り)2 点、銅剣の柄の金具と石製の把頭飾、玉飾漆鞘、鉄剣、ガラス製勾玉などが
出土しました。中でも玉飾漆鞘は、長方形に薄く切った小さな碧玉(薄緑色の石)を黒い漆に赤い漆を重ね塗りした上にたくさん並べた、大変めずらしいもので、この遺跡でしかみつかっていない、おそらくはこの地域独自のデザィンとおもわれます。


また、この遺跡からは大型掘立柱建物や、それに伴うお祭りに使った土器を大量に埋めた跡がみつかっていますが、これらは墓地がつくられてから数十年以上経ってからのものです。こうした首長クラスの墓地とお祭りに関係する大きな建物、そしてお祭りに使う大量の土器を埋めた跡がセットになって発見された遺跡は他にはなく、この時代の“まつりごと”の実態を探る上で大変重要な遺跡です。


| 島栖地域の大型古墳一6 世紀〜7 世紀はじめの首長クラス墓

大木川左岸の中位段丘で、柚比町荻野から田代本町に至る丘陵上には、
東から 剣塚占墳〔 全長約80m )・岡寺占墳(全長約70m )・庚申堂塚古墳く全長約60m ) たしろおおたの3 基の前方後円墳と、壁画系の装飾古墳として知られる
田代太田古墳に直径約42m )の、大規模古墳が点在しています。
ほかにも庚申堂塚古墳につぐ規模と考えられる東田古墳がありましたが、残念ながら長崎自動車道の建設工事にかかって壊されてしまい、現在は残っていません。


これらの古墳が成立した背景には 筑紫国造磐井の舌L ( 527 年)の影響が考えられ、乱後、九州に輪蔀氏の蔀戻が設定された際、物部と物部氏に関係のある鳶最部が塞舞郡内に認められることから、その母体となる有力豪族の墓ではないかとおもわれます。
築造年代をみると、剣塚古墳が6 世紀前半と古く、続いて6 世紀前葉一中頃に
かけて東田古墳、庚申堂塚古墳が造られ、さらに6 世紀中頃に岡寺古墳、最後に6 世紀後半の
田代太田古墳という流れになります。
また、準億億苗遺跡く牛原町)から、7 世紀初頭に築かれた全長60m 以上の前方後円墳の可能性のある古墳や、直径約40m の大型円墳などが発見され、安良川左岸域にも大型古墳が築かれていることが最近の調査でわかりました。
これらの古墳は菌冨整備工事で現在は残されていません。なお、すぐ北側には一辺約20 m の方墳であることが確認された百度塚古墳があり、また、周辺には塩塚古墳、稲塚古墳など直径30m 前後の中型円墳が立地しています。
安良川左岸域の首長クラスの大・中型古墳は、大木川左岸域の大型古墳よりも時代が下がりますが、この2 つの古墳のグループは、−連のものとして時代的な変遷をたどることができるかもしれません。それとも、この2 つの地域は古代以降、大木川を境にして基疑郡、養父郡の2 群に分かれることから、あるいはまっ7 たく別の系譜のものである可能性もあります。
群集墳のまとまりゃ、集落遺跡の動向を踏まえた上での今後の倹討課題です。

| 勝尾城下町遺跡島栖地域の中世山城

中世の城郭は、天守閣や高い石垣がある近世の城郭とは違い、自然の地形を活かして山を削ったり、土を盛ったりして築かれています。したがって江戸時代の城のように華やかではありませんが、そこには自然をたくみに利用して、自分たちの領地を守るために城を築いた先人の知恵をしのぶことができます。
勝尾城下町遺跡は、本城の勝尾城(城山ンとその麓の館を中心として、館から
始まる谷間に武家屋敷・町屋を設けその間3 ケ所を空堀で渡断しています。さらに
谷を取り囲むように周囲の山に鬼ケ城・鷹取城・葛龍城・鏡城とし、った城を配して城郭群を構成する大規模な戦国時代の遺跡です。


遺跡は当時鳥栖地方を治ちくしひろかどめていた筑紫氏が領地支配の中心として築いてきたもので、現在の遺構は広門の時代、天正14 年(1586 年)の島津氏との合戦で落城した時のものとおもわれます。
現在、調査が進み遺跡の全体像が徐々 にあきらかになりつつあります。近年の発掘調査で、城下町の前面を守る深さ約3m 、幅約10m の茎環と主董、これを渡る土橋、「登城道」と呼ばれる道の両側で町屋跡が確認されています。また館跡では石垣や柱穴が確認されています。さらに各城跡も良好に遺存しており、戦国時代の城下町の姿を知る上で全国的にも貴重な遺跡です。


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