鳥栖民話1| 鳥栖民話2 | 鳥栖の方言 
鳥栖民話2

   
   あかげれ太夫

あるところに、ばばしゃんと娘が暮らしていた。ところが、毎晩、男が娘の部屋にしのんでくる。  ばばしやんは心配で「あの男は誰かい?」と聞いた。
娘は知らなかったので 男がつぎの晩きたときに名前をたずねてみたが、どうしても身元を明かさない、 ばばしゃんは娘に「こんどきたら、糸を通した針を男の着物のえりにたててやれ。
そして、朝帰る男の糸の後をつけていけ」と言った。
男はつぎの晩もやってきた。娘は言われた通りにしてあとをつけると、川のふちについた。
するとそこでは一匹の大蛇が苦しんでいた。大蛇は、「お前が針をさし込んだところは、 おれのノドじゃった。お前はおれの子どもを身ごもっている。その子が生まれたら大事に育ててくれL - - と言い残して息絶えた。
娘は、丈夫な子どもを産んだが、その子には三つのうろこがあった。ふつうの者より大きい子だったので、大太と名づけた。
大太はすくすくと成長したが、冬になると、あかぎれがしたので、友だちは’,
”あかぎれ大太 ”と呼んだ。 大太は、背中の三つのうろこを家紋にしたげな。



   
   道真ゆかりの池と石

もう千百年あまりも前のこと。菅原道真が大宰府に流されたとき道真を慕ってついててきた時遠は鳥栖に隠れ住んでいた。
鹸老いて子供のいない時遠をあわれんで、道真は我が子、
長寿麿を養子にやった。
道真はときどき鳥栖の長寿麿をたずね、池に映った自分の顔を描いて子にあたえた。
その池が元町に残る(鏡姿見の池)で、道真がよく休んだ石が腰掛けの石だという。
(この伝説の地は鳥栖小学校正門に近い長崎本線沿いの南側で道路側に案内の石碑がある)



   
   貝の恩返し

昔、大川ぞいの村に長者がいた。その一人娘、貝姫は、
村人が持ってきた貝やタニシを、いつもそっと大
川に放してい。あるひどい干ばつの年、村中が雨乞いをしているところへ、きたないなりの男があらわれ 「貝姫を俺の嫁にくれるなら、 必ず雨を降らせてやといった。
長者は、半信半疑の末 その男と約束をしてしまった。
翌朝、長者が眼をさますと、白くひ干上って枯れはじめていた村中の水田には、あぜごしするほどに水があふれていた。男は、約束どおり貝姫をもらいにきた。長者は夜まで待ってくれるように頼むと、貝姫を家の奥に隠して、厳重に戸締りをした。
再び長者をたずねた男は、たちまち大蛇になって長者の家を七巻き半巻くと、バリバリと締めはじめた。貝姫は生きた心地がしなかった。
ところが、いっときして急に静かになったので、貝姫がすき間からのぞくと、大蛇はだらりとなっており、その体中に、シジミやタニシなどが真っ黒に吸いついていた。



    
   天皇のヨロイをねだった神


昔、高良山に登られた景行天皇が酒殿泉(現在の鳥栖市酒井西町付近か)で食事をされたとき、天皇のヨロイが異様に光ったので占いをさせた。
占い師は、この土地の神(豪族の長)が天皇のヨロイを欲しがっているというので、そんならと天皇はヨロイを与え、「永世の宝にせよ」とおっしゃった、それから、ヨロイを納めた社を永世の社といい、のち、長岡の社といった。今の永世神社のことである。
( 肥前風土記』 から)



   
   法事の使い

息子さんに、「城さんば呼んでけえ」ちゅうたら、「坊さんな、
ど ぎゃんしとんな? ち。「下は白うして、上は黒か」ち言わっしゃったげなけん、呼びい行きよったげなりゃあ、牛のおったげなけんで
「この人じゃろう」ち言うてから、あの、牛に頭ば下げて、
「あした来てくれなさい」ち言うたげなりやあ、「モー」ち一言うたげなけん、「もうじやござらん。あしたでござる」ち一言うたち。



   
   下野へ逃れた安徳帝

寿永四年春の夜ふけ、壇の浦で身替りを入水させた、
安徳帝とその守護の一行は、小倉・太宰府・浮羽・宮の陣を経て、下野(鳥栖南部)の立石家に身を寄せ、古沢・古賀ら一族に護られながら成長される。九歳から一六歳までの間、筑後の長者、藤吉種継について学問され、一八で種継の娘、千代との間に男児をもうけられた。のちの川上万寿寺開祖、栄尊国師という。
帝は二五歳の正治二年八月、ほうそうで亡くなられたが、生前の御手印が現在の水天宮のお守り札。二位尼は通善寺を建立し正治三年四月、
六七歳で逝去、千代姫は剃髪して久留米・京洗町に観音堂を建て、建治三年七月、八六歳で逝去。その後、御隠棲所に伽製を奉犯したのが下野水天宮であったが、洪水に三度も流されて対岸に漂着したのが、久留米水天宮の起こりとなった。



   
   九千部山の名の起こり


むかし、この地方が台風と病気で住民が困っていたとき、
その平癒祈ろうと隆信沙門という僧が山にこもり、経文一万巻を読もうと思い立った。その九千部を読んでもうすぐ四九日の満願も近い夜、美しい女に化けた白蛇が現れて、夜な夜な僧を
たぶらかした。村人たちがたずねたときは僧は骸と化し、読経一万巻は果たせなかった。
(石谷山頂に近いところに、沙門の墓と経塚といわれるものが あり、中原町では九千部山の尾根筋の南の石谷山を九千部の 風神としてあがめている)



   
   ほげかしこ


お経のきらいな子僧がいたc 父の和尚は和尚はきびしいが、
母の坊守はあまい。ある日、和尚の留守に小僧が代りに檀家のお経をあげることになった。さあ、大変、お経の下手な小僧
に坊守が付いて行き、こっそり障子に穴をあけることで、
お経の最後の 「あなかしこ、あなかしこ」をうまく言わせようとした。
さて、本番のところで、坊守が小指にツバをつけて障子に穴をあけると、それを見た小僧は思わず、「ほげかしこ、ほげかしこ」といった。
(註・鳥栖地方では穴をあけることを「ほがす」という)




   
   白サギとキツネ

道に迷った旅人を一晩、泊めることにした爺と婆、さて、どんな手料理でもてなそうか、相談していたが、やっばり「殺しで、手打ちにしよう」 と決めて準備に
とりかかった。
それをふすまを襖越しに聞いた旅人は、命からがJ 」ら逃げてしまった。
ゴロシ粉(麦粉の方言)と、手打ちうどんを旅人は早とちりしたらしい。



   
   おしん観音の木


壇の浦で敗れた平家の高官の女房、お俊の方は、逃れてこの地に辿りついたが、平家狩りで殺された。
その後、天災や流行病が続き人々 はお俊まつ
のたたりと恐れ、観音様をまつり木を植えた。その死を惜しみが
おしんに、お俊がおしんになったともいわれる。

昭和二六年頃、中学生たちが「憩いの木」と名づけた。田代小に近い旧田代中の運動場にある。木はタブ・クロガネモチ・シイが巧みにからみあって今も元気。市の名木。


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